●第79回 2019.9.27(金)報告

テーマ 「ハンセン病の歴史、いま」
 わが国のハンセン病対策は全患者を強制的に一生、施設に隔離する「患者絶滅政策」であった。それによって患者はもちろん、患者の家族までもが人生全般にわたる被害を受けた。しかし一方で、当事者は隔離政策に対して粘り強く闘い続け、自らの力で権利を回復してきた。ハンセン病隔離の歴史と当事者の闘いを学び、この社会がなぜ過ちを犯したのか、今、私たちに何ができるのか、市民一人一人の問題として考えてみたい。

 話題提供 青木美憲さん 国立療養所 邑久光明園 園長(邑久光明園 前園長 石田裕さんにもお越しいただきました)

プロフィール
 1987年、大学生のときに国立ハンセン病療養所大島青松園を見学し、ハンセン病では医者が患者を苦しめてきたこと、隔離が不要とわかっていながら「らい予防法」が放置されていることを知り、医療者としてこの問題から目をそらすことは許されないと感じた。大学卒業後に臨床研修を経て1997年より大阪大学公衆衛生学教室で入所者の被害実態調査を行う。2000年より国立ハンセン病療養所邑久光明園に勤務、国賠裁判で原告側証人として調査結果を証言した。2002年よりミャンマーへ派遣されハンセン病対策に参加、2004年4月より駿河療養所、10月より邑久光明園、2006年より大阪府保健所勤務を経て、2009年より邑久光明園に復職。

□ ハンセン病訴訟と医療者の責任
 ハンセン病の分野では、2001年、2019年の判決で国が過失を認め、国が行った隔離政策が間違いであることが証明された。しかし、実は医療者も同じような過ちをしてきたことも間違いない。したがって、私を含め、ハンセン病に関わる医療者たちは被告側の立場にあるとはじめに語られた。

□ ハンセン病についての誤解
 ハンセン病は、「不治の病」「恐ろしい伝染病」「当時としては、隔離は仕方がなかった」「日本で患者が減ったのは隔離のおかげ」と思っている人がいるが、それは全て間違いである。また、ハンセン病はかつて「らい」というのが正式病名だった。もっと良くない呼び方として「かったい」と呼ばれることもあった。「かったい」とは、家の片隅にいるということ、社会の片隅にいる存在という意味である。「らい」という言葉が長年使われる内に忌まわしいイメージが染みついてきたので、そのような偏見を払拭したいという当事者の粘り強い希望により1996年に病名がハンセン病と改められた。それでも「らい」という言葉を使い続ける人もいるが、それは人を傷つける言葉であり使うべきではないと考えている。また、現在の入所者に患者はいない。元患者との名称もあるが、入所者、入居者とお呼びしたり、退所された人たちもふくめて回復者という呼称も使われている。

□ ハンセン病とは
 新しい病名「ハンセン病」は、1873年に世界で初めてらい菌を発見したノルウェーの医師ハンセンから取られたものである。ハンセン病は、らい菌によって起こる感染症で主に皮膚と末梢神経が侵される。特に顔と手と足に症状が出やすい。しかし、生命には影響しにくい病気である。潜伏期間は3年から10年以上と言われており、インフルエンザなどの他の感染症と違ってその期間は長い。その理由は、らい菌の増殖力は弱く、人の免疫で容易に死滅するためであり、発病することは極めてまれである。すなわち「人から人へは簡単にはうつらない」と言っても間違いではない。それをあらわす一つの事例として110年の歴史を持つ邑久光明園では、述べ3,000人の患者が暮らし、多数の職員と接してきたが職員への感染数はゼロという事実がある。

□ 隔離が不要であった根拠
 ハンセン病の登録患者の推移を全国調査の結果から見ると、第1回調査の1900(明治33)年には、約3万人の患者が社会生活をされているが、1925(大正14)年の調査では15,000人にまで減少している。この間に隔離は本格的には行っておらず、特効薬もまだできていないので自然に減少していたことがわかる。当時(明治以降)、日本の経済状況は好転してきた時期である。このことから、発病した数の減少は、社会の経済状態と関係し、経済状態の好転とともに人の持つ免疫の力が平均的に増強したことによると説明できるだろう。それは世界のデータを見ても同様である。また、抗菌剤治療により完全に治癒する病気になった。抗菌薬プロミンが日本に登場したのは1948年で、今では薬も改良され飲み薬を組み合わせることで完全に治る病気になった。また、2001年裁判の判決文には「人から人にうつりにくい、生命に影響しにくいことから、もともと隔離の必要性は低かった」「明治以降、患者数が自然に減少していることがわかっていた」「戦後の特効薬プロミン以降は隔離の必要性が完全に否定された」(2001年の判決文より)と書かれている。そして、近年では日本人の新患はほぼゼロである。

□ 患者・回復者の状況
 入所者、入居者、もと患者、回復者などさまざまな呼ばれ方があるが、患者というのは、みなさん治癒されているので間違いである。入所者の平均年齢は今や86歳(光明園は86.5歳)で高齢化し平均在所期間は60年である。当時、この病気は10〜30代の若い頃に発病することが多くみられ、すぐに係員に療養所に連れてこられた。それから人生のほとんどの時間を療養所で過ごし、今まさに人生最後の時間を迎えつつある。らい予防法という隔離を定めた法律は1996年に廃止された。そして、裁判の結果、社会復帰することは当然の権利と認められ、社会復帰への支援も可能になったにもかかわらず、今療養所に入所されている方は療養所を終の住処と考えていらっしゃる。それは、施設の環境の改善などではなく、長年の隔離政策により高齢化し、社会との絆や社会基盤も絶たれてしまったという人も少なくないからである。社会復帰されている方は約1,100人いるが、そのほとんどが病歴や療養所にいたということを隠している。それは、もしばれた時に自身が差別を受けることとともに、家族への影響や迷惑をかけてしまうのではないかと心配するからである。

□ ハンセン病が嫌われた原因
 ハンセン病は感染症だが、隔離などの特別な対策は不要である。しかし、ハンセン病が嫌われてしまった原因に、顔、手、足の変形など症状に対して「みにくい」と感じる偏見(見た目への差別)や、感染症に対して「こわい」という偏見などの風潮がある。ハンセン病が嫌われた原因をその症状という人がいるがそうではない。その症状に対する人々の受け止め方や感じ方こそがこの病気を嫌わせた原因ではないだろうか。病気のせいにしてはいけない。「人々の心の持ち方」こそ問題なのではないだろうか。ただ、ハンセン病への誤解を解くために「遺伝はしない」「感染はほとんどしない」などの説明をすることがあるが、ここは注意をしなければいけない。それは、感染しない病気なら怖がらなくていいのか、遺伝しない病気ならいい病気なのか、そうではないと思う。どんな病気であっても病気を理由にして嫌ったり、人を差別したりすることが間違いなのではないだろうか。

□ 患者と家族の受けた被害 〜療養所入所者818人からの聞き取り〜
 3つの療養所の818人にインタビューをした。まず、入所のきっかけを尋ねると半数が「強制」または「半強制」と回答した。「半強制」と回答した方の話を聞くと、社会に居場所を失った。社会から燻り出される形で半強制的に療養所に来ざるを得なかったと語られた。その理由に「無らい県運動」がある。無らい県運動とは、この病気は恐ろしい感染病だから一人残らず療養所に隔離をしようという当時の一大キャンペーンである。この運動により、この病気に対する恐怖心が世の中に染み付いてしまった。これはのちに裁判でも明らかにされている。残りの半分の人に話を聞くと、家族を被害から守るために自分から療養所に入ったと語っておられる。また、一般病院では当時、治療は禁止(一部例外で大阪大学、京都大学に研究施設があった)されていたため治療のため入所したという人もいた。また、2、3年で回復して帰ってこれると騙されて入所した人もいた。この話を聞くと自由意志で入所した人はゼロと言える。中には四国遍路で死を覚悟の放浪の旅をした人もいた。その背景には、隔離政策があり、社会に住む場所を奪われていたのである。患者にとって療養所はなくてはならなかった場所ではなく、患者たちは隔離政策により療養所以外に行き場を奪われたと考えなくてはならないと考えている。

□ 不妊手術・人工妊娠中絶通称
 「お召し列車」(隔離車両)に乗せられ療養所にきた入所日は、自分の人生との別れの日である。入所後は、さまざまな規則があり、所内結婚の条件として男性の不妊手術(「断種」手術)が義務付けられていた。もし、入所後に妊娠が発覚した場合は、人工妊娠中絶を強いられた。入所後の妊娠発覚とは、無資格者による不妊手術の失敗から、妊娠に気付かなかったケース、またどうしても産みたいと思い、妊娠を隠したまま8ヶ月、10ヶ月に至って発覚した場合にも「人工妊娠中絶」が行われていた。この時期は生きて生まれてこれる月数、あかちゃんに対する殺人行為と言える。出産直後にあかちゃんをおかあさんの枕もとに寝かせ、「可愛い男の子ですね」などと伝えたのち、隣の部屋で看護師が「処置」をしたという事例もある。そしてそれに対しておかしいと声を上げることもできないのが当時の療養所である。生きられなかったお子さんについては、荼毘に伏すなどして、お墓に埋葬するなどがなされるべきであるが、当時、研究材料としてホルマリン漬けにされていたことが2001年の裁判で明るみに出た。裁判では、13の療養所で149体の胎児が無断で保存されていたとわかり、その内49体が邑久光明園で行われていたことがわかった。これは大きな罪である。それは、当時「らい」の診断が事由に挙げられていた優生保護法に基づいて行われた、強制隔離とならぶ重大な人権侵害である。

□ 罰則
 らい予防法で所長に「懲戒検束権」が与えられた。各療養所には監房(監禁室)が設置され、罰則の対象は外出に関するものが大半であった。一時帰省も許されず、親の死目にも会えない厳しい規則があった。外出時の保証人として、他の入所者を記載する規則があり、帰所が遅れると保証人が罰せられる連帯責任で管理が強化されていた。また、療養署の厳しい処遇に抵抗する入所者、職員に従順でなく扱いづらい入所者たちを一か所に集めた重監房も存在。厳寒の地で十分な食物も与えられず、多くの人が亡くなった。療養所の「懲戒検束権」行使は、隔離を完全なものにするための手段であり、入所者が園に逆らうことは許されなかった。現在、この監房が残っているのは邑久光明園のみである。

□ 患者作業
 入所者には患者作業が義務付けられていた。その内容は、療養所運営に必要な業務すべてである。療養所の中には身体の不自由な人の世話をする職員は配置されていなかったため、軽症者がほぼ強制的に「病室・不自由室付き添い」を全員が当番制でさせられていた。その他、土木、建築、し尿汲み取りや亡くなった仲間の火葬など、あらゆる仕事をさせられた。それは、療養所の運営を安く上げる目的であった。子どもたちでさえ働かされていた。その作業賃は一日わずかタバコ一箱分や葉書6枚分とよく言われ、世間の十分の一程度であった。また、患者作業によって入所者は指の障がいを悪化させることが多く見られた。指が曲がるのはハンセン病の後遺症である。しかし、指がない人が多くいる。その原因は麻痺の残る指で作業をするため火傷や怪我に気づかず指の障がいを悪化させたことにある。しかし、怪我をしても十分な治療もない上に、作業を休ませてくれないので早く治すため指を切断したということが行われていた。療養所と言っても実態は収容所であった。

□ ハンセン病対策の歴史
 入所者自治会の活動により療養環境は飛躍的に改善し、いまは開かれた施設になっている。1996年には、入所者たちの長年の要望により、らい予防法が廃止され法律的な隔離は終わった。しかし、隔離は終わっても入所者たちの生活は何も変わらなかった。それは、法律の廃止に2つの大きな問題を積み残したからである。一つは、今まで行ってきた隔離政策は誤りだったということを国が曖昧なままにしたこと。もう一つは国が責任を認めず謝らなかったことにある。それに対して入所者たちは本当に怒った。1998(平成10)年 ハンセン病国家賠償裁判をおこし、2001(平成13)年 熊本地裁判決で隔離政策の誤り、国の責任を初めて明らかにした。国が入所者の最後の一人まで責任を持ちお世話をすると約束をした。それが今の療養所の下敷きになっている。これは、入所者による人間の尊厳をかけた闘いの成果であり、入所者の闘いの延長に裁判があり、弁護士や市民が真摯な反省のもとに呼応した。

□ 家族裁判
 2019(平成31)年6月28日 熊本地裁判決で、国の隔離政策により家族への偏見差別が生じたことと家族関係の形成を阻害されたことを認めた。この判決により家族も隔離政策の被害者であることが明らかにされた。また、その判決文では、偏見、差別について市民の責任も指摘されている。

□ ハンセン病問題の今とこれから 入所者の状況
 入所者の意向を尊重した運営と家族関係の修復が現在の課題として残っている。それをあらわす端的な場面が入所者が亡くなったときである。入所者は最後まで療養所で暮らし、亡くなるが、お葬式は療養所で行われることがほとんどである。さらに、ご家族が参列されることは半分程度であり遺骨の引き取りをされる方は非常に稀である。それは、ご家族も自分の身内にハンセン病患者がいたということを隠し続けているからである。周りの人に言ったときにどのような状況なるのかわからないという強い不安がその背景にある。いくら療養所の環境が良くなったとしても、最後、亡くなったときに療養所の納骨堂に入って故郷には帰ることができないことで、入所者たちは生きてきて良かったと感じることができるのだろうか。これはまさに今私たちが考えなくてはならない現実である。

□ ハンセン病問題の今とこれから 退所者の状況
 裁判前は、療養所にいれば生活給与金をもらえたが、退所すると給与金はもらえないという状況があった。当時国は、世の中の社会制度を使うことが真の社会復帰であるといい、生活保護でも受ければいいという姿勢であった。しかし、裁判後には、権利保障が進み、退所者給与金が支給されるようになり、ようやくある程度生活が安定化した。しかし、ほとんどの人は社会で病歴を隠して生きている。別に病歴など言わなくてもいいのだが、それを隠さなければ生きれない社会は間違っている。なので、周囲に病歴や入所していた事実を知られることを恐れ医療や介護サービスを利用しにくく再入所したという事例も少なくはない。いま、病歴を隠す必要なく、地域で安心して暮らせる支援が必要である。

□ 過ちを繰り返さない
 私たちは、過ちを繰り返さないためにはどうしたらいいのか。ハンセン病は見た目の差別から始まって悪い病気というレッテルをはり、隔離政策まで行ってしまった。やはり感染症は「こわい」とか顔の変形は「みにくい」 といった心の受け止め方を改める必要があるのではないだろうか。そして、疾病や障がいへの偏見のない社会を構築する必要がある。(心の問題)ハンセン病では社会を疾病から守るために患者の人権を大きく損なってしまった。確かに社会や大勢を病気から守ることは大事である。けれども、同時に患者も守らなければならない。社会の利益と患者の人権を両立させることが大事になってくる。(考え方の問題)ハンセン病については裁判によりやっと最近になってようやくその問題性に気づいた人が多い。では、この問題に対して誰も声を上げてこなかったのだろうか。実は、声を上げ続けていた人がいる。それは、療養所の入所者たちである。しかし、その声に対して誰も応えてこなかったため、問題への対応や解決への道を遅らせ、当事者の尊厳がずっと守られずにきたのである。尊厳とは、当事者の意向が尊重されているかということではないだろうか。当事者の尊厳が守られ、当事者の視点に立ち、その意向が尊重される社会を構築されなければならない。