●第83回 2020.1.31(金)報告

テーマ この国に生まれた私が、ちょんを名乗る理由
―存在を否定され、分けられている現状
話題提供 ちょん なりみつ そんがんさん

□ 幼少期の出来事
 私の母は、たかまつちえこといい、生まれは四国の人である。そして父は、おおはらという通名を名乗る韓国/朝鮮人である。私が5歳のとき、母は心を病み船から飛び降りて亡くなった。父は子どもを育てることができず私は親戚の家や施設で育った。はじめは、母方の親戚の家で暮らした。意味もわからず、家や学校で「あいのこ」と呼ばれ、住まいは母屋ではなく離れで暮らしていた。それが自分にとって初めての被差別体験だった。当時私は、父親が韓国/朝鮮人だということを知らなかった。その後、堺市にある児童養護施設へ入所させられ、父方の親戚に引き取られたが、小学校で朝鮮人差別を受けたことで初めて自分が日本人と韓国/朝鮮人との混血注1だということを知った。それまでは日本人として生きていただけにショックだった。その混乱している時期に父方の親戚が暮らす生野区に引き取られたということ。

□ 自分と国籍・民俗・血統
 小学校4年生から中学3年生にあたる時期まで、生野区のいわゆる朝鮮人部落に暮らした。社会では少数者である韓国/朝鮮人がその地域では多数派であった。朝鮮学校に通い始めると、さまざまな問題が起きた。母親が日本人であることから「パンチョッパリ」と呼ばれ、差別を受け続けた。チョッパリというのは韓国・朝鮮人から日本人に対する差別用語である。私は半分が日本人ということでパンチョッパリと呼ばれながら朝鮮人社会で生きていた。

□ 自分のアイデンティティに揺れる
 私は10代の頃にどのような生き方をするのか迷っていた。国籍は日本なので、たかまつなりみつとして「日本人として生きたらいいやないか」と考えたときもあった。しかし、そうすることは、私が「あいのこ」と呼ばれ、朝鮮人社会でも、日本人社会でも差別を受けながら生きてきたことをなかったことにしてしまうことではないだろうかと悩み葛藤した。そして、自分は何者なのかという問いと向かい合う中で、国籍は日本だけれどもどちらの道筋も知らなければいけないと考えるようになった。そして、朝鮮人よりも朝鮮語や朝鮮の歌、踊りを上手くなろうと努力した。その結果、ハングルや民俗的な力を身につけたが、パンチョッパリはパンチョッパリのままだった。

□ どちらでもなくて、どちらでもある
 朝鮮人社会は「お前は朝鮮人になれ。それがアイデンティティだ」という。そのような地域的なプレッシャーを感じながら朝鮮人になろうと努力した自分と、日本人でいいのではないかと考える二つの自分が存在していた。日本人として生きようとすると、差別を受けてきた朝鮮人社会から離れていくのかという地域からのプレッシャー、朝鮮人として生きようとすると日本人からの差別があり国籍、民俗、血統に対する嫌悪感を抱いた。中学3年生のころ、その差別の背景には両国ともに単一民族論があることに気づいた。そのことをきっかけに自分のアイデンティティの確立に向けて考えていくことになる。それまでは、韓国・朝鮮人か日本人かという二者択一しかなかったのが、「どちらでもなくて、どちらでもある」と考えるようになった。それは西成との出会いが大きい。

□ 自分を受け入れる
 西成区釜ヶ崎にある旅路の里に薄田神父という人がいた。私が初めて旅路の里に来て「ちょんなりみつそんがんです」と名乗ったとき、皆、それをさらっと受け入れ、人の過去を詮索することのない優しさのある文化とすべてを受け入れてくれる素地のようなものを感じた。そのとき「そう言っていいんだ、『ちょんそんがん』と『たかまつなりみつ』のどちらかひとつじゃなくてもいいんだ、どちらでなくても、どちらであってもいいんだ」と感じた。その経験は、自分のアイデンティティの確立に大きく影響した。それは私が20〜23歳の頃だった。

□ 新たなアイデンティティの確立
 混血者という言葉そのものが今の日本にはないかもしれない。ダブルと名乗っている人がいる。「どちらももった」という主張のもと両国の架け橋になりなさいと言われることもあるが、「混血児差別、あいのこ差別」は存在し、歴史の中で自分たちを主張することのできない環境に分けられ、現在もレッテルを貼り続けられていると認識している。混血者はどっちつかずの存在と言われ、今も苦しんでいる人がいる。その多くは、どちらかの側のアイデンティティに寄ろうと頑張っておられる。それがその人たちにとって生きる力になるなら否定することは絶対できないけれど、どちらかを選ぶ、それを守ることによって、落とされていく存在があるということを認識することが大切だと思っている。私は、そのどちらかになってくださいという二者択一という考え方から少し離れた存在としてのあり方を主張し続けて61歳を迎えた。このような主張をしている人はあまりいないのではないか。

□ ちょんなりみつそんがんと名乗る理由
 日本はこれから多くの外国人労働者を受け入れることになっていく。その中で一定の人は日本に定住するだろう。在日韓国/朝鮮人も、強制連行も含めて労働力として日本に来た人が定住し子孫を繁栄させてきた。今後、アイデンティティに苦しむ新たな在日外国人の子どもたちが増えるのではないだろうか。新たなアイデンティティの確立ではなく、もともとある存在自体を認めていくことが必要なのではないだろうか。例えば「韓国系日本人」という考え方が広がると混血者は随分楽になるのではないだろうか。しかし、それは新たなレッテルとなる可能性をはらんでいることも事実である。血の論理というのは、単純な問題ではなく、整理もまだできていない。しかし、自分がちょんなりみつそんがんと名乗る理由を丁寧に語ることのできるような思想性は持っておきたい。

□ 透明人間
 なぜ自分は在日韓国/朝鮮人として生きるのかということを自分の中に落とし込む作業や弱さを引き受けるということを可能とするには他者の力も必要である。私のバックボーンには、やんじょんみょんさん、ぺすっちゃさんとの出会いがある。二極化された発想の枠組で考える国籍、民俗、血統を守っている人からすると私のような主張は理解されにくく、まるで透明人間のように、ないことにされることがある。「ちょんそんがんなりみつ」と名乗っていると自然と離れていく人や「在日としての誇りもないのか」と言われることもある。

ディスカッション
 「帰化で子どもの名前が変わることに対してどのように思うか」私は、小学校4年生で引き取られたとき「今日からお前はちょんだ」と言われた。そのとき、初めて民俗を意識した。そして、新しい世界の始まりに期待する気持ちが沸き夢を見た。しかし、夢は叶わず2つの差別が同時にやってきて解決しようのないトラウマを子ども心に抱えてこれまで生きてきた。もし帰化した子どもが「あなたは日本人として生きるの」と言われたときに、その道のみがあり、何の差別も受けないというようなことが、ありえるだろうか。その子どもが自分と同じように二者択一のアイデンティティに嵌め込まれていくとすると苦しいだろうと想像できる。しかし、これからの社会がどのような考えを持つかということで変わる可能性もあるのではないか。

□ ディスカッション「最近のヘイトについて」
 参加者より質問私も在日韓国人として生きてきた。大きな差別体験はなく暮らしてきたが20代前半のころアイデンティティに揺れて自分は何者だろうと考えた。その経験は2つの文化について深く考える大切な時間となっている。しかし最近、朝鮮や韓国への蔑視がキツくてネット右翼と呼ばれる人による書き込みなどを見ると怖く感じることがある。例えば、すごく信頼している人やお付き合いしている人に、どのタイミングでカミングアウトしたらいいんだろうか、相手の親にどう思われるのだろうか、心の中ではどう感じているのだろうかなど考えると、すごく窮屈な気持ちになることがある。そのような怖さを感じることはないですか。回答時代的な背景の違いは大きいと感じる。私がアイデンティティーのことで葛藤していた当時は直接的な差別の時代だった。現在のネットによる差別は、匿名なので顔が見えない差別に変化した。ネット右翼と呼ばれている人たちもたぶん貧困層で社会からパージされていて何かにすがりたいのではなだろうか。ただ、そのすがり方が偏ってしまっているように思う。本当に顔を見て話をすれば分かり合えるのではないかと感じることがあるけれど、実際にそれはできない。基本的に民族差別や弱者へ対する差別は、弱いものがさらに弱いものへ向かうという構図がある。それはメディアの責任も大きい。いま、在日として生きていくことに対して、なぜ自分は在日韓国/朝鮮人として生きるのかということを自分の中に落とし込む作業が必要なのではないだろうか。そして、弱いものがさらに弱いものを叩くというプレシャーは民族問題だけではなく社会全体の問題として起きているようにも感じている

□ ディスカッション「アタッチメントの根幹」
 参加者よりちょんなりみつそんがんさんのお母さんが我が子の目の前で自死したときのことをお伺いしました。ほんとうに大変な逆境体験ですね。その逆境体験を生き伸びてこられたちょんなりみつそんがんさんの生きる力の強さに感動します。そして私がそのお話を聴いて強烈に思ったのは、(もちろんその時の状況は知る由もないですが)”母子心中ではなかった”のだということです。2000年頃MY TREEを始める前の森田ゆりさんから、”母子心中で亡くなる子どもは最もひどい虐待死”と習いました。それまでの日本では母子心中は虐待と考えられていなかった。「子どもを置いては死ねない」と、むしろ美談のように道連れにされていた。私が想像するに、お母さんは周囲のさまざまな眼に悩んで孤立して鬱状態だったのか、子を連れて四国を出ようと乗船して、発作的になどの状況を想像しました。しかし、母が子を想う強さ、そして子が生きようとする力の強さがあって、今の61歳のちょんさんがいらっしゃるのだと想像します。5歳のなりみつそんがんちゃんがその後の人生で、親戚や施設をまわりまわって大きくなっていかれた道のり、私も今62歳ですから当時の時代背景からも想像します。なんというサバイバル力でしょうか。ちょんなりみつそんがんさんの生きる強さの源には、頭の中の古い記憶、言葉ではあらわすこともできないほどの古い記憶の中に、母に抱っこされて名前を呼ばれてオムツを変えてもらって母乳を飲んだなどの安心の記憶があるのだろうことを直感しました。私が従事しているあかちゃんのいるお宅への訪問事業でも、たいへん困難な家庭・家族の状況にあっても、生まれたてのあかちゃんを目の前にした母は、どの母も我が子を大切に大事に抱っこしている、そんな場面を私は知っているのでいろいろ想像したことを少しお伝えさせていただきました。

□ ディスカッション「生き方」
 参加者より質問「どっちでもなく、どっちでもある」とはすごく強いし、難しい答えだと思うのだが、どうやってその答えを見つけ出せたのでしょうか?回答社会のせいに、人のせいにもしたくなかった。そのことが原動力になっている。明るく元気に生きたい、そして幸せになりたい。でも差別はしたくないなどぐちゃぐちゃな感情がうまくマッチした気がするという言い方しか浮かばない。どちらかひとつを選択するという整理されたひとつの生き方だけではなく、ぐちゃぐちゃな(多様な)生き方があるということ自体を認めて欲しいという気持ちがある。部落問題やさまざまな問題でも同様だと思う。だから自分はダブルとしてごまかすのではなく、混血という存在として生きてきたこと自体が認められる社会に変化していくことが大切だと思う。そして、私は決して強くはない。先ほどいただいた質問にあったように差別が直接的なものから間接的なものへと変わってきたとしても、社会がそちらの方向に傾くことに対して恐怖を感じている。だからこそ新しい考え方やカテゴライズを広げていきたいと思っている。

□ まとめ
 ちょんなりみつそんがんさんの人生を共有させていただく中で、それを個人の問題としてではなく、私の問題として考えた。さまざまな痛みや逆境体験の語りから、その人生の中でアイデンティティをどのようにして確立してこられたのかということを想像しながらお話を聴かせていただいた。さまざまな逆境を生き抜いてきたしなやかな力の根源にあるものは何かということはもう少し見つめていくことができるかもしれない。アイデンティティとは自分で自分の中に見出すというより、他者により他者として大切にされる経験によって見出されるものではないだろうか。それは、地域の人の温もりや、幼かったころの短かったかもしれないけれど母とのアタッチメントにあったのかもしれないと感じた。二者択一からの第三の道の必要性に関しては、在日の問題だけではなく他の問題に関しても考えていかなくてはいけないテーマである。最後に世代が新たに引き継がれていく中で、この痛みからの学びを次の世代にどう継承、伝播していくことができるのかということを考えさせられた。

注1 混血(者)
ハーフやダブルといった表現が多く使われる中、ちょんなりみつそんがんさんが生き抜く中で大切にされてる表現である。