●第85回 2020.7.17(金)報告

テーマ  沖縄の歴史と現実から見えてくるもの

話題提供  服部 良一さん 社民党大阪府連代表

元衆議院議員、
現在、戦争をさせない1000人委員会、
戦争あかん!ロックアクション共同代表、
金城実事務局長、
元米軍人軍属による事件被害者を支える会事務局長、
沖縄とともに基地撤去をめざす関西連絡会代表
などを歴任。

□ トライアッド「私と沖縄のつながり」
 トライアッドによる対話「自分と沖縄とのつながり・沖縄のイメージ」から始まる。まなびを得た後にどのような気づきや変容が生まれるだろうか。あるグループでは「若い頃に行ったこともあり、南国、基地というイメージしか持っていない」「最初は、南国のイメージしか無かったが、仕事で沖縄を訪れたとき、楽しい酒宴の途中で、あなたは基地に行ったことがあるのかという質問をされ、全員が私を注視していた事実に、沖縄の人の基地に対しての重さを感じた」「透析が必要である患者さんに私が出会ったとき、透析を拒むので話を聴いていると、沖縄の人たちが沢山亡くなっている中、延命する必要性を感じられないことや、小学生のころ、米兵に無理やり連れていかれそうになったとき、同じ小学生の仲間3人が助けてくれたことを語ってくれた」との話があがった。

□ 自己紹介として
 服部さんは沖縄出身ではなく、九州福岡県の出身である。私が今までかかわった基地のことや日米関係から見た沖縄の話をしたい。
 まず、1971年7月に西成区にあった民間保育園めぐみ保育園が、公立保育園に移管されるとき、在日中国人の徐翠珍(じょすいちん)さんが国籍条項を理由に解雇された。大阪市に解雇を撤回させる運動を経て、初めて1973年に在日外国人が公務員に採用された。外国から沢山の人たちを労働力として日本に連れて来たが、社会保障や住居についての保障はまるで不十分。その闘いが今年、本となり発行された(「華僑二世徐翠珍的在日」)。

□ 厳しい沖縄差別
 1971年その闘いの最中に、二人の沖縄・宮古島の青年が尋ねてきた。その青年の兄が放火殺人事件で逮捕されているという。その事件は、東住吉の蒲鉾会社で、再雇用を断られ、社長の家に放火、奥さんが亡くなるという痛ましい事件であった。
 服部さんは、その事件を詳しく調べてみると、背景には「ひどい沖縄差別」が存在した。西成と大正の人たちと協力して、本人を支えようと動いた。しかし、本人は裁判中に拘置所内で自殺した。それは、当時の沖縄の青年に大きなショックを与えた。
 沖縄の人たちへの差別事件はさまざまな場所で頻発していた。沖縄ではあたりまえに生活で使う沖縄語(ウチナーグチ)だが、共通語(ヤマトグチ)を喋れないので解雇されるという事件もあった。差別を受けてきた沖縄の人たちの誇りを取り戻すためにと、大正区をはじめ、集団就職者が集まり「カジュマルの会」を発足した。その目的で今も続いているのが「エイサー大会」である。しかし当時、同じ沖縄の県人会からは、恥だから辞めておけという声が出た。そこに厳しい差別の現実が垣間見える。

□ 金城実さんとの出会い
 金城さんは、1970年、ゴザ暴動に触発されて、大阪で彫刻活動を始める。服部さんは金城さんと関わったことにより人生が変わったと言う。「戦争と人間」という4m×8mのレリーフを4tトラックに乗せて全国88か所を回った。服部さんが事務局長として各地で準備をし、金城さんが講演をした。毎回巨大なレリーフの組み立てと解体を行う大変な作業であった。金城さんの語りは、日本軍による沖縄住民への虐殺や自決強要―自分の子どもや身内を自分で殺めなければならないという悲惨を極めた語りであり、沖縄戦の実相を訴えた。
 西成でも近隣の沖縄のお肉屋さん・スナック等100件の広告を得て、「西成おきなわまつり」を開催した。

□ 沖縄戦とは
 沖縄戦とは、完全な本土防衛の捨石作戦であった。沖縄出身の死者15万人(当時の人口の4分のⅠ)本土約7万人、米軍約2万人(戦争が終わった後で、病気やけがで亡くなった方を含めると10万人)。亡くなった方の名前を刻む「平和の礎」には、24万人の人たちの名前が刻まれている。その中には、日本人だけでなく、アメリカ人、在日朝鮮・韓国人の名前も刻まれている。何故これだけの多くの人達が亡くなったか。それは、この沖縄戦が住民を巻き込んだ軍民一体の戦争であったからである。沖縄を学ぶためには、沖縄戦を理解できずには学べない。

□ 日本軍による集団虐殺・集団強制死はなぜ起きたか
 また当時は軍は住民の降伏を許さなかった。それは、日本軍による住民虐殺や集団自決の強要で多数の人たちが亡くなった原因と考えられる。「生きて捕虜の辱めを受けず」「天皇のために死ね」徹底した皇民化教育が存在した。方言(ウチナーグチ・シマグチ)を喋ったらスパイとみなした。渡嘉敷島、座間味島など全島で約1000人の人が日本軍による集団強制死で亡くなり、久米島では20名の方々が日本軍によって虐殺された。大阪天満の写真館の元日本兵渡辺さんが、摩文仁ヶ丘から久米島にサバニで漂着し、その悲惨な虐殺の現場を見ており、後に「逃げる兵」という本を出版してその事実を後世に伝えている。

□ チビチリガマで何が起こったのか
 アメリカ兵が上陸した読谷村では、チビチリガマで住民の集団死があった。これは戦前の皇民化教育が徹底していたため起こった悲劇である。親が子どもを、身内が身内を殺める悲劇が起こった。敗戦後、その事実は無かったことにされた。戦後長年タブーとされ、外部に話が出ることはなかったがやがてその事実は明らかになる。金城実さんが、チビチリガマに平和の像をつくろうという話になった。しかし、住民はどのような像をつくればいいのか想像できなかった。金城さんは当時、読谷村で長崎原爆記念公園に置く「平和の母子像」を制作しており、その作品をみた住民が、このような像であればと共同制作することになった。
 しかし、平和の像は1987年沖縄国体で知花晶一さん「日の丸焼却」のあと、「読谷村にはまだ平和は早過ぎる」と、右翼団体によって破壊された。その後再建される。
 また、2018年には、地元の少年がチビチリガマの内部に残る、薬瓶や人骨など遺品を潰し荒らした。理由は「きもだめし」であったが、この事件は県民に大きな衝撃を与えた。金城さんは少年達の保護観察官となり少年4人と一緒に「野仏」を作り、ガマ周辺に設置された。
 大阪市住吉区の解放会館に設置されていた「解放へのオガリ像」を、チビチリガマの近辺に設置できないか、今住民とともに模索中である。差別から立ち上がろうとする子どもを抱いた母子像、ガマの中では母親が自分の子どもを殺めてしまった歴史―悲惨な歴史を乗り越える未来への希望の像として発信する追悼の広場にできないか模索中である。近くには、沖縄への朝鮮人強制連行の碑として、「恨の碑」がある。

□ 大阪で「沖縄戦」裁判はじまる
 2005年大江健三郎・岩波書店を、座間味島守備隊長梅澤・渡嘉敷島守備隊長実弟赤松が提訴。「集団自決を命じた」と虚偽の事実を本(沖縄ノート)に書かれたとし、本の出版差止・名誉棄損・損害賠償を求めた裁判である。
 2011年最高裁で「軍の関与を認める」という判決が確定された。

□ 軍命令削除の教科書検定の撤回を求める11万人大県民集会 2007月9日29日に。
 大阪で始まった裁判が「軍強制削除の教科書検定の撤回」の県民大会まで広がった。島ぐるみで史実を守れと国が軍の命令を教科書から削除することに対して、沖縄の人の想い「怒り」が表出した。沖縄戦の事実体験をしることは、沖縄を知る最も重要で根源的なことである。

□ 沖縄米軍基地を考える
 1995年9月、米兵3名に小学生がレイプされる事件が起こった。その事件に対して、10月21日、沖縄で未曾有の大県民集会(8万5千人)が起こった。この少女暴行事件がきっかけで、沖縄米軍基地撤去要求が高まった。この動きが、普天間基地問題の発火点になった。
 少女暴行事件では、実行犯である米兵3名が、県警に引き渡されなかった。その理由は、日本とアメリカが結んでいる「日米地位協定」の存在があるからだ。
 沖縄の闘いは1996年大阪でも広がり、「ひびけ沖縄のこころ 関西のつどい」として「平和な島を 関西沖縄の会」「沖縄とともに基地撤去をめざす関西連絡会」の呼びかけで毎年2000名以上の連帯集会が継続した。服部さんは事務局長として活躍された。

□ 沖縄の米軍基地の現状
 国土面積が0.6%の沖縄に、米軍専用施設の70.6%が沖縄にある(沖縄本島の15%を占める)。沖縄の陸地だけでなく、広大な水域・空域も米軍の占領地である(東京の空域も同じ)ことはあまり知られていない。米軍の許可なく、日本の飛行機は、自由に日本の空を飛ぶことが出来ない。
 在日米軍人数は 2万6千人、内海兵隊が約60%を占める。海兵隊が多いのが沖縄の米軍基地の特徴である。
 1950年代に米軍は「銃剣とブルドーザー」で土地を強制収容した。その様子を金城実さんが読谷村で彫刻を作った。米軍が実際ベトナム戦争で使ったブルドーザーを村民が持ってきた。今読谷村のアトリエにある。普天間基地は世界一危険な基地と、当時のアメリカ国防省長官のラムズベルト氏が述べている。それ程、普天間基地は、あたりまえに生活をしている沖縄の人たちの日常の空を飛んでいる。住居だけでなく保育所や学校の上も。
 普天間基地は、5~7年で返却するという約束であったが、県内に新たに基地を建設するという条件で(現在の辺野古)、それは返還でなく、沖縄の別の場所に新たな基地建設であることに対して沖縄住民の闘いが続いている。結局24年間普天間基地は返却されていない。

□ 新たな基地問題と沖縄の基地被害の歴史
 新たに進められている名護市辺野古基地建設には、当然、沖縄住民は反対している。
 また、実際建設を強引に進めていくなかで、基地を建設するには、立地的に難しいという現状がわかってきた。それは、軟弱な基盤であることで、杭を7万7千本打ち込み、しかも打ち込む深さがいまだ日本の技術では、実例が無い90mという未知の工事である。また、将来滑走路が沈下していて凸凹になり、その凹んだ場所をジャッキアップで持ち上げるという構想までが練られている。活断層も存在もある。計画は事実上破綻している。
 2016年4月には、米軍属によって20才の女性がレイプされ殺されて死体遺棄された事件が起きた。死体は山中に放置された。その場所には、沢山の花束が置かれていたのを服部さんは見ている。基地被害として、性犯罪・強盗・暴行・殺人・傷害事件・住居侵入・交通事故・ひき逃げ・覚せい剤・米軍機の落下・パラシュートの落下・騒音・訓練の誤射など、さまざまな被害を住民に対して行っている歴史がある。全国で毎年米兵の事件は2000件あるが、そのうち1000件が沖縄で起きている。交通事故なども含むが、1日に3件は毎日沖縄で米軍関係の事件が起きている。
 2005年8月に起きた沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したとき、現場は米軍に包囲され、日本の沖縄県警はまったく現場の近くにも入れなかった。沖縄県警が米軍に、合同現場検証を要求したが、実現されなかった。また嘉手納基地跡池の沖縄市サッカー場からはダイオキシンや「枯れ葉剤」の成分が発見された。北谷町キャンプ加え北側跡地の土壌からは、基準値の20倍を超える鉛が検出。また、ディーゼル油による土壌汚染をはじめ、ロケット弾、多数の銃弾、無限軌道などが次々掘り出されている。恩納通信所跡地では、カドミウム、水銀、PCB、鉛、ヒ素、などの有害物質が検出されている。
 環境汚染が発生しても、米側は原状回復義務がない。

□ 海老原さんとジェーンさんの闘いから何を学ぶか 沖縄の怒り
 海老原さんは、大学に合格したばかりの息子(鉄平)さんを米兵による交通事故で亡くされた。その対応に納得いかない海老原さんやその仲間は「米軍人軍属による事件被害者の会」を1996年13家族で発足、4件の裁判を闘う。
 ジェーンさんは、在日オーストラリア人であり、横須賀基地の米兵にレイプされる。米兵は無罪、アメリカに帰国、民事裁判で300万円の賠償決まるも支払なし。防衛省と交渉して肩代わりで支払わせる。ジェーンさんはさらに米国にいる加害者を探して裁判をする。共通するのは、米兵を一方的に守る法があり、賠償も無い。多くの人がこの法を前にして泣き寝入りしなければいけない状態が続いている。その現状が、基地への反対、辺野古への反対、県民の怒りとして表出されている。
 沖縄の怒りは、生死をさまよい島民の4人に1人が亡くなった沖縄戦の体験と記憶。そして、日常的な米兵の事件事故によって、生命や人権、財産が守られていない怒りである。

□ 服部さんが伝えたいこと
 日米地位協定が日本の憲法の前にあり、基本的人権が日本の主権が環境が守られていないという沖縄の現実を知って欲しい。

□ トライアッド「私と沖縄  新たに発見した事感じた事」を再考する
 服部さんの話を聞いてから、沖縄のイメージがどう変わったか、グループで共有した。「金城さんに踊りを教えてもらったことがある。そのときも金城さんは『今だかつて沖縄は日本人に理解されたことが無い』と話していたことが理解できた」「知っているつもりで知らないことばかりであり、グーの音も出ないという感覚です。人事にせず自分事として今後考えたい」私はこちら側(日本)の人間であるという安心感が、結局無意識的に沖縄は沖縄だけの問題としていたかもしれない。辺野古基地、命や人権を奪われ、沖縄戦はタブー視で話せなかった。戦争は今も続いている。

□ 質疑応答
Q 50年前、言葉や文化が違うだけで、何故解雇されたのか?
A 沖縄から集団就職してくる青年は普段から島の言葉で喋っていて、訛りがある。1972年前後は、言葉の訛りの差別。戦前から住居を借りるのも、「朝鮮人・リキ人お断り」、三線うるさいと本土の人たちからさまざまな差別を受けていた。その不満もありさまざまな会や活動が生まれた。エイサー祭りに反対をしたのは、大阪に暮らす沖縄県民であった。それは、沖縄人だということがばれたら差別されるから。その背景には、常に沖縄人として差別され続けてきた経験があるからだと思う。質問者から、別の文化等、異質なものが入ってくると同調できない日本の姿があるのではないか。それは、同化の圧力につながっているのかもしれないと考えてしまう。

Q 米兵やアメリカ兵という話の括り方を聞くと、すべてのアメリカ兵が悪い人というイメージを抱いてしまう。私には仲のいいアメリカ兵がいる。罪を犯した当事者の名前でなく、米兵という括りですべてを語ることは如何なものか?
A 沖縄人はコザ暴動で米兵の車を焼いて対抗したとき、黒人の車は焼かなかったという事があった。しかし、彼らは米軍人軍属という形で日米地位協定で制度的に保護されている。沖縄の問題に関わると、理解し合える米軍関係者の方とも出会う。また、問題を掘り下げると、米兵の殆どの人たちの給料が本当に安いという実態も見えてくる。呼び方については今後も考察する必要はある。

□ 誰が問われているのか?
 小学生3人が米兵にレイプされた事件が起こり。1995年10月21日8万5千人集まった、大県民集会で語られた普天間高校3年中村清子さんの文章から
 そして、今ここにたくさんの高校生や大学生の人が集まっています。若い世代もこの問題について真剣に考えはじめているのです。今、このような痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国にこの問題を訴えかけています。私は今、決してあきらめてはいけないと思います。
私たちがここであきらめてしまうことは、次の悲しい出来事を生み出すことになるのですから。
いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私は嫌です。未来の自分の子どもたちにも、そんな生活はさせたくありません。私たち生徒、子ども、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。私は戦争が嫌いです。だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。次の世代を担う、私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが本当に嫌だと思うことを口に出して行動していくことが大事だと思います。私たち若い世代に新しい沖縄のスタートをさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。そのために私も、一歩一歩行動していきたい。私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和の島を返してください。私たちが 今 問われています。