● 第87回 2020.8.28 社会問題研究会 報告

テーマ 学校におけるこども支援 〜同和教育主担として〜

話題提供 西川 祐功さん もと鶴見橋中学校 同和教育主担
現 大阪市立矢田中学 校長

□ イントロダクション
今日、夕方のニュースで安倍政権の退陣が報じられた。この長期政権は教育の世界にどのような影響を与えただろうか。道徳の教科化が進み、大阪市では教科書に限定して指導することになっている。
今年(2020年)、4年ぶりに教科書の採択が行われた。4年前の教科書採択では、教員の意見をほとんど無視して育鵬社の教科書が導入された。歴史や公民の内容は非常に偏った内容のものである。今回の教科書採択では、育鵬社の教科書はほぼ採択されなかったが、それは良かったと言えるのかどうか。実はこの4年間で社会の常識が大きく変えられたと感じている。他の会社の内容も育鵬社と変わらない内容になってしまったので無理をして育鵬社を採択しなくても良くなったのだと受け止めている。
現場では問題意識を持って教壇に立つ仲間もいる。しかし、このように問題意識を持っている教員はどんどん退職に向かっている。われわれは、この課題意識を若い教師と共有できているだろうかと安倍首相の退陣スピーチを聞きながら自分自身の問題として振り返っていた。

□ 生誕
私は1959年、堺市にある母の実家の2階で産婆さんに取り上げられ誕生した。そこは昔の農学校の西側、塩穴から少し離れたところである。いま思い出すと、周りはバラックが立ち並び、ガスが通っておらず、水道は一つしかないため水は金盥に貯めて使っていた。冬場は凍るので歯を磨くという習慣がなかなか身につかなかったように記憶している。電気は1カ所だけ灯っており夜は暗かった。

□ A中学校でのきっかけ
1982年に教職についた。初任校は東住吉区のA中学だった。当時は、「第三の荒れ」の終わりの時期で全国的に学校が荒れていた。大阪市内は特に荒れている学校が多く、赴任した学校もその一つだった。
当時、教育の世界では、生徒が荒れているのに教師が介入することなく15時台に学校を後にする姿や教員間にもあからさまな差別が存在するなど明らかにおかしなことが起こっていた。
私は、荒れている生徒の様子を見て、何か通じ合えるものを感じた。赴任して4年目を迎える頃には校長の任命で生徒指導主事を担当した。生徒指導主事をすると、授業や担任を持たなくなる。学校が荒れていると警察との連絡などの仕事があるが、赴任して4年経っていたので生徒や保護者との信頼関係もでき学校は落ち着いた状態になっていた。学校が落ち着いてくると子どもの抱える内実の問題に関わることが可能となる。そして、不登校の子どもに家庭訪問をしたり、就学援助や生活保護の子どもへの対応にあたった。

□ 出会いの姿勢 〜子どもを信じる〜
当時、担任の教員から「不登校の子どもがいるのですが、オカルト的で怖い」という相談を受けた。私が家庭訪問をすると、生徒は下半身不随で自分の足に針を刺して「痛くない」と言って見せた。医師の診断では異常がなく、家族はタタリだと信じており、部屋中に魔除のお札が何枚も貼られていた。
私は彼に定期的な訪問を提案し、本人や家族と向かい合った。私は彼と話す中で、彼が言う下半身が動かず、なにも感じないという話を信じることにした。そして、彼を背負って公園に出かけ、一緒にリハビリをする日々が始まった。約1年間、公園のベンチで語り、ブランコなどを使ってリハビリに取り組んだ。夏の終わりには、ブランコからベンチまで歩くことができるようになるまで回復し、2学期には生徒のいない日曜日に学校に登校できるようになった。3学期には学級にも参加して、みんなとともに卒業することができた。卒業後はコンピューター関係の専門学校に進学して、彼は今でも便りをくれている。
当時、私は若く未熟だったが、子どもの言うことを信じて、一緒に行動しようという気持ちで「子どもたちとの出会い」に臨んだ。私たちは、子どもたちの声をどのような気持ちで聴いているだろうか。

□ 西成区のB中学へ異動
29歳の時に西成区のB中学に異動した。その学校は、当時、大阪市で最も荒れている中学の一つだった。異動した年の1月に校区の小学6年生がB中学校内で亡くなるという事故が起きた。その小学生は、短ランを着て小学校に通い、教師に体ごとぶつかるなど非常に元気な生徒だった。体格もよく、これ逸材と考え中学校に呼び顧問をしていたB中学のサッカー部に誘っていた。
しかし、残念なことに彼は転落事故で命を落とした。当時、中学3年生2人が殺人容疑で逮捕された。しかし、西川先生は殺人ではないということを確信していた。B中学では屋上に向かって「とい」を登り降りする通称「B(中学校名)サーカス」という遊びがあった。中学生はシンナーを吸っていてもどこに「とい」があるかは知っている。しかし、小学生だった彼は、といのない柱の下に転落して亡くなっていた。
ただ、死因は凍死だった。要は、雨の降っている明け方に転落をして意識を失い、体温が奪われて命を落としたのである。その後、逮捕された少年は地域の保護司や現在、大阪市の顧問弁護士をしているI弁護士の尽力もあり、まもなく殺人容疑は晴れた。現在もその2人と付き合っているが、「君たちは連絡をする必要があった。彼が転落して君たちが逃げた後も彼は生きていた。その時すぐに連絡をしていたら死なずに済んだかもしれないということを自分の中に持ち続けなくてはいけない」と話した。その子たちは、その後も多くの問題を抱えながら生きていくこととなる。
2年目になると生徒指導主事を担当することになった。B中学では、それは副同和教育主担者という立場でもある。5年目になると同和教育主担者になり地域、保護者との連携を重視して学校の再建に取り組んだ。

□ ケース会議という手法
西成区教育改革推進会議の一員としてさまざまな活動に取り組んだ。そのなかで、ひとりの障がいがある子どもと出会った。その子は面白い子で、毎日、萩之茶屋のゲームセンターに行き、メダルを集めてはタバコに替えて、地域のおっちゃんに売っていた。
しかし、その子には複数の障がいがあり、家庭的にも養育が難しい状況もあったので金剛コロニーという施設に入所することになった。
そこから、地域で障がい者運動の先頭に立つ障害者会館で働く女性と一緒に障がいのある子どもたちを地域でどう支えるかという課題に向けて取り組み始めた。金剛コロニーに出かけ、この施設に預けられた子どもをどう地域に戻すのかという会議を月に1回開いた。そのケース会議では、児童相談所、区役所、障害者会館、金剛コロニー、地域、学校の担当者がテーブルを囲み、その子自身のことや家庭状況、そして支援のあり方について話し合った。それまで教員は教員の世界でしか物事を見ないという特徴があった。それでは学校で起こった問題は、施設や少年院に行くと一段落という見え方しかできない。
しかし、この地域における他職種、多機関連携による取り組みは、教育ケース会議のきっかけとなり困難を抱える子どもたちの問題解決に大いに役立った。B中学は西川先生が勤めた9年間で劇的に変わっていった。

□ 学校が開く −その1、教育ケース会議
西成区の7校区連絡会では、同和教育主担が差別問題について討議していた。しかし、その背景にある学力、生活課題、非行の問題など多岐にわたる議題が存在したため、子どもの生活課題に特化した会議を1996年5月に立ち上げた。これが、のちの教育ケース会議になる。
その会議は、学校、地域、区役所、児童相談所、芦原病院、ケースワーカーなどで構成され子どもたちの生活課題の解決に効果をあげた。この教育ケース会議と釜ヶ崎で行われていたあいりん子ども連絡会(1995年〜)は2006年に制度化された要保護児童対策地域協議会のルーツである。
教育ケース会議は、学校内外で起こる「いじめ」「不登校」「問題行動」などの子どもの発する表現や信号をいち早く察知し、その問題の背景にあるものを発見し解決するための具体的な取り組みを行った。そこでは、さまざまな立場の人がそれぞれの専門性を活かして問題解決に向け役割分担して取り組んだ。

□ 学校が開く ―その2、同和加配
西成の中学に赴任して10年が近づいたとき、地域の人からこの地域の課題は、C中学にいかなければ見えないと言われたこともあり、1998年にC中学に異動した。C中学でも生徒指導主事の任に就いた。当時は同和加配が教育の質や学校外でも生徒を支えることを可能としていた。それは卒業していった生徒の追指導や少年院に入った子どもなどへの支援も可能とした。例えば、1日をかけて播磨、加古川から始まって、宇治から奈良にいく間に阿武山や修徳へよって近畿一周するという任務も許された。

□ 教師が開く −教師と子どもの関係を見直す
C中学に転勤当時、体罰問題などが表面化していた。そこで1999年以降確認された生徒指導に関する事項をまとめた。また、C中学に赴任して4年目に入学してきた子どもたちは小学校時代から教師を含め大人に対する不信感が強い状態にあった。その原因を分析すると2002年に同和対策事業特別措置法の期限が切れるため、1998年から同和教育加配の段階的な削減をしていることが少なからず影響していた。
1、生徒の指導において一切の体罰を放棄する
2、確認された事項については、全教職員が意志一致(指導手法ではなく教育的目的の一致)し、生徒の指導にあたる
3、問題行動の認識については、以下の考え方を目安とし基本的には受け止める姿勢で臨む

(1)学年や学校全体全体の教職員が協力しながら同方向を向き、連携を密にする。
(2)家庭への連絡を密にとり、その情報は共有する
(3)子どもの人権を尊重し体罰による指導はあってはならない。
(4)平素より子どもとの触れ合いを深め、学級・学年中心主義にならず、いつでも、誰でもその場で指導できる創意工夫が必要である。

● 指導理解の5領域
第1領域:本来保護者や子どもにその判断を委ねる領域
第2領域:全教職員が一致して指導にあたるが、その問題行動は子どもたちのサインとして受け止める領域
第3領域:決して許してはならない問題行動の領域
第4領域:学年や学校の状況、また個人の考え方によって第1領域か第2領域か判断に分かれる現象は第2領域として指導する。
第5領域:学年や学校の状況、また個人の考え方によって第2領域か第3領域か判断に分かれる現象は第2領域として指導する。

□ 学校を開く −解放運動
日本には部落差別がいまも存在している。歴史的には制度による差別の時代から明治の解放令があり、本格的に経済的にも厳しくなり激しい差別が心に大きな傷を負わせてきた。
オールロマンス事件をきっかけに実態として起こっている差別の現実と、意識の部落差別を結びつけて行政と向き合うということがスタートして同対審答申につながった。それが同和対策事業特別措置法という法律の端緒となった。
解放運動の中で勝ち取ったものに教科書や給食がある。当時、教科書は高価なものなので買えない家庭がたくさんあった。中学校給食は1970年に矢田南中学が大阪で一番初めに開始した。鶴見橋では1979年に給食が始まり、同和地区を中心に大阪市内の12校が中学校給食を始めた。しかし、中学校給食は広がらず廃止になったことは反省である。

□ 学校を開く −要対協のルーツ
同和教育主担は差別事象について考え、取り組むことが主たる務めだった。差別の結果、子どもに荒れや不登校という現象が起きていた。その背景には、差別の実態が存在しており、その根本的な問題を解決しなければいけない。そこで教育ケース会議の手法が重要な意味を持つ。あいりん地区では小掠昭さん(社会福祉法人石井記念愛染園わかくさ保育園前園長) や荘保共子さん(認定NPO法人こどもの里理事長)が既にあいりん子ども連絡会というケース会議を地域で行い、子どもの生活課題に取り組んでいた。そして、2000年に虐待防止法ができ2006年に行政が要保護児童対策地域協議会をつくることになる。先駆的に取り組んでいたこの2つのケース会議が要対協になり、その会議の質は非常に高いものだった。西成区では6つの中学校区ごとに要対協が設置されており、その機能はまったく他の区や自治体とは違う。

□ 解放奨学金
2000年をすぎ、同和対策にかかわる法律が期限を迎えていく。基本的には自立していくという発想で今までのさまざまな対策に自ら決別して一般対策に移行していくというキャッチフレーズだったが、解放奨学金だけは無くしてはいけないと、当時、山本孝史さんという国会議員と一緒に訴えた。しかし、解放奨学金も一般の奨学金に移行。解放奨学金が廃止され、金銭的事情で進路をあきらめる子どもたちに、自分たちは積極的に一般奨学金貸付を利用した進学を勧めた。このことは、後に、非常に苦い思いを残した。教え子たちに、大学を卒業する時点で1,000万円もの借金を背負わせてしまうこととなったのである。

□ 地域社会の観測 ―調査
同和対策に関連する法が期限を迎えて一般対策に移行する中で新たな課題が浮き彫りになった。それまでは、生活保護世帯も就学援助世帯もそれ以外の世帯も同和対策として取り組んでいたものが、一般政策になると、就学援助を受ける世帯が60%、生活保護世帯25%というような実態が浮き彫りになった。大阪市、西成区全体と比較するなどの調査をした。
例えば、C中学では上記のような支援(生保、就学援助)を受ける世帯は80%を超えているが、天王寺区に行けば10%いない。西成区全体では50%という実態が数値として現れた。
同和加配に代わる新たな加配などの必要性を訴えるために、2009年度に統計をとった。教育ケース会議にあがるケースの66%をC中学の生徒で占めており、その背景には、一人親や両親ともにいない世帯などの家庭的な問題や、経済的な問題を抱えている世帯が80%に達しているということが明らかとなった。
当時の虐待の把握件数の分析を見ると、7校区の把握件数は、西成区全体の2倍で大阪市の12倍である。その統計結果については、さまざまな状況から虐待に至る可能性は7校区が高いとしても、むしろケース会議の仕組みの定着により早期発見・早期対応ができたと認識している。2019年度の統計を見ると、大阪市の虐待出現率は2009年度の西成区全体の出現率と同じ数字になってきた。これは、現在も中学校区で要対協に取り組む西成の中学校区単位のケース会議がいかに虐待問題の解決に大きな力を持っているかを示している。
当時、小掠さんや荘保さんが盛んに言っていたのは、虐待防止は子育て支援がセットでなければいけないということだった。だから西成区だけ、児童虐待防止の後ろに「・子育て支援連絡会議」という名称である。(西成区虐待防止・子育て支援連絡会議)

□ 子どもサポートネット事業(大阪市)
大阪F大学のNYさんが学校プラットホーム事業を始めて、2020年度から子どもサポートネットという制度が大阪市全体で始まった。これはひとつ間違うと新たな差別を生んでしまう可能性もあるので心配しているが、当時の教育ケース会議のスクリーニングシートを応用したものである。今後、発展していかなければいけない制度の一つである。

□ 出口の問題
C中学では、卒業後20歳になるまで「追指導」を行っている。特にケースに上がっていた子どもには自立できるまで付き合っていきたいと考えている。卒業生のケースは在校生の継続ケース50ケースに比べ69ケースに上り、多くの労力を費やしている。しかし、困難を抱えた卒業生へのケアは在校生を安定させるのに有形無形の効力がある。
西成区の15歳から20歳までの少年犯罪件数や観察処分を受ける少年の数はC中学校区では、他の中学校区に比べて低い傾向がある。このことは、ケースを含む卒業生への追指導が卒業生の安定に一定効果をあげていると言える。
一方、卒業生が課題を抱え、世代を超えてケースとしてあがる場合と、そうでない場合がある。大切なのは、ただ面倒を見てケースワークするだけでは不十分だということである。その子どもが自分で生きていく力を獲得して、自分の力で歩んでいくまで付き合っていかなければいけない。その子どもたちに希望を与えて生きていく力につなげていくまでが本来のケースワークであると認識するべきである。

□ 生活課題と自己責任論
C中学で13年勤めた年、他の区にあるD中学に異動になった。正直、そのときは退職を考え西成でファミリーホームを運営して地域里親運動をしたいとも考えた。あと15年C中学にいたら理想に近づけたのではないかと考えている。もし西成に戻れるのであれば、残した仕事の続きをぜひやりたいという気持ちがいまもある。
異動した学校では新たな課題に出会った。それは、「学校全体の問題にならない」ということ。B中学やC中学では、生活課題などの問題は、「学校全体で考えなければいけない」と取り組めたが、D中学では、2割の困難な状態にある生徒の課題は、一部の個人の課題であり学校全体の取り組むべき問題にはならないという現実だった。まさに自己責任論である。どこの学校にも割合は違っても困難な状況にある子どもは存在している。その学校に5年いたなかで小学校と協力して教育ケース会議を立ち上げるなどの工夫はしたが、大きな体制や流れにはなれなかったと感じている。

□ ともに生きていくための教育環境
小学校低学年では、子どもたち同士の関係については「みんな仲間」と教える。それが、高学年になると、生活状況の変化や違いが見え出し、荒れる子どもや不登校などの問題が現れてくる。おそらく中学生くらいになると学力に影響が出て、勉強ができない子、学校に来れない子、学校に不適応をしている子どもとして出現し「ああなってはいけませんよ」と親や教師から教えられる。子どもたちは、昔仲間だった子どもが「ああなってはいけない子」に変わり、自分の中に矛盾を持つようになる。今の不確定な時代の中でその子どもたちが再び自分の中につまずきを持ってダメな子の部類に入ってしまうと立ち直れないのではないかと感じる。
それが、C中学校の生徒であれば、さまざまなしんどさやつまずきを経験する生徒が多くいるが、それを支援するおとなの存在も一緒に見ている。これからはそのような環境を作っていかなくてはいけない。今もその考えは変わっていない。むしろそういう子どもたちが互いに支え合うことが理想だが、それを切っていくような教育が存在していた。

□ 希望の光
E中学に一人の生徒が1年間の入院生活を経て転入してきた。彼女は小学生時代に虐待を受け一度は祖父母に引き取られたが不適応を起こし、施設に入所を経て、転入してきた。学校では頑張るけれどもしんどくなってリストカットをするなどの姿が見られた。新型コロナウィルス感染症が拡大する5月のある日、自宅3階から飛び降りた。一命はとりとめたが、長いスパンでの治療が必要だと判断して大阪市立総合医療センターや兵庫県立こどものこころの医療センターなどにつなぎたかったが、当時入院していた病院の医師が身体的な回復だけを診て退院可能と本人に伝えてしまったので、改めてケース会議を開き、どういう見守り体制を作るか協議して保育所等訪問事業というインクルーシブを目的とした事業を活用することになった。
この事業は、学校でインクルーシブ教育推進をめざす事業だが、E中学では地域の中でいつでも相談できる場所として機能していた。この事業でベテランと若手の2人の支援者が付くことになった。その若手が西成区のC中学の卒業生で当時からケースにあがり追指導も行った生徒だった。
一昨年、卒業生である彼女はE中学の西川先生を訪ね、資格を取り福祉の道に進みたいと話した。すぐにE中学校の地域にある事業所を紹介して、そこで働きながら学ぶことになった。
彼女との出会いは当時C中学に在籍する不登校の兄を家庭訪問したときに小学校4年生だった彼女も不登校で家にポツンといたことがはじめである。彼女は卒業して女子校に入学するが校内に彼女ができたということで退学になった。その後、地元府立高校に転入して、現在は男性として生きている。中学校時代からケースで見守り続けていたその子が「地域」でつながり、寄り添い続けてくれる支援者としてそばにいてくれている。これは私たちの取り組みのひとつの光のように感じている。

□ 会場とのディスカッション
Q 子どもを信頼するという言葉に共感をしました。しかし、そのことを理解できない人にどのように向き合ったらいいのでしょうか?
A 若い頃は敵対をした。論派、説き伏せようとための理論武装などもした。しかし、結果としてどちらの方が学校として安定するのかということを考えるようになってきた。いまは、どのように伝えていくか、どうすれば相手の感性に響くのかということを考えながら付き合っている。

Q 個人の問題から社会の問題としていくためには?
ひとつひとつの事象について、社会の全体の中ではどう考えるのだろうかという問い。例えば、水道の出ない地域はどこだろうか、消防車の入れない地域はどこだろうかと突き詰めていくとすべて1箇所に集まってくる。その問題とは何なのかということを社会に問うていく方法は解放教育の中で学んだ。ケースに関しても集約をしてまとめていくことで、見えてくるものがある。その背景にある課題、心のニーズこそ解決しなければ、虐待などの問題の解決には至らない。

□ 最後に(ディスカッション)
では最後に要対協が話題にあがりました。あいりん子ども連絡会、教育ケース会議がルーツになり6中学校区単位で行われていて、そこで取り扱われるケースの6割が卒業生で、その問題が解決していくお話をしていただきました。最後は児童相談所をよく知る方にお話を伺ってみましょう。
現在、花園大学で教員をしているが、もとは児童相談所で長く児童福祉司をしていました。要対協の前身は西成区にあり、それが国まであがり制度化されたということは当時の所長、津崎さんから叩きこまれてきました。全国でほぼ100%要対協が設置されてきたが、増えれば増えるほど形骸化している現実もあります。現実、どの自治体においても必死にこなしているという状況の中、中学校区で行うのは負担が増えるという意見がある。本当に中学校区で取り組む楽しさ、良さをどう伝えるのかという工夫が必要なのだが、その点に関して学校ケース会議をどう定着させていくかという点に関してどうお考えですか?

A 先程の学校が開くということ。子どもたちを排除しないこと。西成でも矢田でも同じで排除された子どもたちも戻ってくるという特性がある。それを包み、抱えていくことは地域が良くなること、地域自身が良くなること、そこで暮らす人々が豊かになるということなのだということを説明をしなければいけない。いくら排除しても、その子どもは校区に暮らし、世代を超えてその子どもたちも地域で生きる。それを理解し、どこで負の連鎖を断ち切るのかということを考える必要がある。それは楽ではない。しかし、開かれた学校である限り、卒業生が、ときにその子どもたちの親となって、相談に訪れる。独り立ちを見届けるところまで、追指導は地域のつながりの中で続けていく。15年20年頑張ることで、いい流れが自転し始めるということを信じて取り組んでいくことだと考えている。