▼ テーマ 人権について考えるPart3自分自身の人権を考える
▼ 日時  2017年7月18日 (火) 19:30~21:00
▼ 会場  望之門保育園
▲参加者     6名

自分自身に関する人権ということに更にしぼりこみ、参加メンバーが当事者として語るということをしていきました。
人権を自分自身の物語として考えると、自分の人権は守られているように感じる参加者が多かったように思います。
幼少期の家庭での過ごし。家が居場所ではなかった。屋根はあり食事も衣類もあったけど、疎外感があった。家族きょうだいの中で不平等を感じた。友人関係などに恵まれたから今があるように改めて感じた。という話がありました。
飲食店でアルバイトをしていた時、日本語をうまく話せない同僚がいた。言葉が伝わらない、だから仕事できないと思っていた。仕事を終えたあとでは印象がちがった。その人は仕事中とても素敵な笑顔できびきびと働いていた。人との関わりから自分の偏見に気づいた。という体験などが語られました。
サッカーなどをはじめとするスポーツ競技で国対抗となると、マナーということ一つでも個人としての評価ではなく、属性として評価していることもあって、ラフプレーをした◇◇さんではなく、ラフプレーをする■■国の人と考えていたり、■■の人はラフプレーをする。というラベル付けをしていることに気付いたという話もありました。
子連れでカフェに行った時のこと、子どもが泣きはじめると、店員からは猛暑にかかわらず店の外にでるように言われる。確かに迷惑かも知らないけれど・・・釈然としない思いがあった。という話もありました。
価値観の異なる人をどう受け止めるか、他者との関係性における自分の認識、偏見についての話となっていきました。タトゥーのこと。 国籍のこと。ローカルルールを守る、守らない。多文化共生と世代間の認識のズレ。 なども話題となりました。
人権が侵害されているかどうかということを考える時、線引きの基準は自分で経験しているものが多いようです。まぁふつう、まぁあたりまえと感じられることがその基準のようでした。言語化しにくいもののようです。自らの目で右と左を見渡して、調べて、聴いて、同じくらいだと感じたことが基準であったりすることのようでした。
たとえば子どもの労働・家事手伝いということであっても、そのコミュニティ文化で、多くなされていれば、違和感を抱くことはとても困難なことであって、体感できないから、気にならない。しかし、その行為を別の視点からみてみるととてもおかしく見えることもあるという話もなりました。
人権というものさしでは権利擁護という正義でもって違和感を正そうとすることになります。まとめてさらに価値観や文化の違いというものも変化させようとすることも起こってきます。自分が手に持っているものさしの目盛りが何なのか?ものさしをどう使うかということがその行為を考える上でとても重要になってくるような気がします。
自分の能力を使って何かを得ることは正当とされる社会では、能力による差は正当とされます。
不当な差だと考えられる時には、助けをもとめるか、回復を要請するかということになりそうです。考えないとわからないという程度のことであれば、日常では不当であるということを感じていないからなのか、そういうものだとあきらめているからなのか・・・それをおかしいと感じることは、感覚の過敏でいわゆるモンスター化していることなのか。
個人の線引きの問題、その基準は結構いい加減なものであって、あいまいなものの中で社会は存在し、暮らしは営まれていることを改めて感じました。
あいまいなその境界に立つ時のものさしの精度をあげていきたいと思います。