日 時  2022年1月25日(火) 参加者 7名
テーマ 『東京地下鉄放火殺傷事件、大阪放火殺人、東大殺傷事件、この3つの事件の話を深め、社会構造や背景を考える』

● 西野博之さんのSNSでの問題提起を受けて

・『普通』『正しさ』『強さ』を求められる現代社会での生きづらさ。その流れについていけない子どもや大人が社会の中で取り残されている。保育や教育の現場の中にも、子どもたちに『うまくできること』『成長すること』を知らず知らずのうちに求めていたり、結果だけに焦点を当ててしまっていたりすることはないだろうか。“生産性や効率性”、“学力偏重の画一的な教育”、“できる・できないでの価値基準”、などが重視され、追い込まれていく子どもたちの状況が日本の至るところにあるのではないだろうか。

・日本基督教団は、異なるいくつもの教派を強制的に1つの団体にするという戦時下の国家政策によってできた。このことは、今の日の丸や君が代の問題につながっているように思う。学校でそれが強制されることと、子どもたちを画一化しようとする教育は根っこの部分でつながっているのではないか。

・『普通』や『正しさ』の規範に追い込まれていく中で、人としての自由が奪われているのではないか。自由な人間の定義は、規範から解放された人間と言えるのではないか。

● 孤独と孤立の違い

・タイトルの事件を起こした加害者たちは、社会とのつながりはどうだったのか。孤独、孤立していたのか。参加者の孤独と孤立のイメージについて、孤独は否定的な印象ではなく、自ら選んで一人になっている能動的な状態。孤立とは、社会や周りの人間から分断され一人にさせられている状況ではないか。孤立にさせられている状況というのは、精神的にもギリギリの状態で非常にリスクが高い。何か一つの歯車が狂った時に、そういう破滅的な思考に陥ってしまうリスクがあるのではないか。

・孤独の状態においても、本当に一人を選んでいるのだろうか、実は一人になるという選択肢を選ばさざるを得ない状況にさせられているのではないか。という見方もある。

● 3つの無差別事件は共通しているのか

・無理に共通したものを探し、大きく社会問題として捉える必要性があるのか。それぞれに違った背景があり、状況も違う。無差別事件として一括りにしてしまうことで、一つひとつの問題の本質が掴みにくい可能性もあるのではないか。

・法務局が調査しているこの10年余りに起きた無差別事件が40数件。地域性の違い、個々の収入の違いや定職に就いているかなど様々な傾向などが記されている。今後この調査を題材にして、背景など語っていく場があっても良いのではないか。

● なぜ無差別?

・学生たちとの会話の中で今回の題材を偶然話していた。その中の意見として、なぜ一人で死なないのか。なぜ人を巻き込むのか、自分の存在を認めてほしかったのではないか。などが出ていた。

・背景の考察として、今まで生きてきた中で、自分という存在が認められていたのか、その人としての存在、仕事、役割が家族や人間関係、社会の中にあったのか。自分の代わりは誰でもよいなど、自分としての存在が認められていない人ほど、『誰でもよかった』という無差別事件につながっているのでないか。

・被害者の思い、残された家族の気持ちを考えると、『なぜ?』『どうして?』という言葉しか出てこない。この『なぜ?』『どうして?』こそが、今回の課題、私たちへのメッセージではないのか。

・『大阪放火殺人』『東大刺傷殺人』この2つに共通していたのは、周囲の評価が高いということ。一生懸命に周りの評価のための自分と戦ってきた、弱さや本音を見せられない、失敗できないというギリギリの状態。精神的な部分での土俵の徳俵のようなものがあれば、ギリギリでも踏ん張れる。そういったものが一人ひとりにあれば良いが、それを培うことが難しい今の社会。実は人間誰しもいつそういう状況に陥ってもおかしくないギリギリの状態と言えるのではないか。小さい時から自己肯定感、自己有用感、自己決定の経験を育んでいくことが大切であり、私たちの保育の中身、子どもとの関わり方も問われる。

など多くの意見や議論が語られました。

次回のしょうけんは、『ギリギリを生きる、紙一重な自覚と無自覚の境界』として、人によってのギリギリを語りたいと思います。ほかにも今後、事例検討、学習会、ディスカッションなど取り上げていきたいテーマを募集しています。